サイバラ本とパパラギ

のらペンギンがいた漁村から工場のある町に移りすんで家族がギスギスしたというくだりがサイバラ本にあって「パパラギ」を思い出した。そしてパパラギから次の一節を引用する。

新聞もまた一種の機械である。毎日たくさんの考えをつくり出す。ひとつひとつの頭が考え出すより、はるかにたくさんの考えを。しかし、たいていの考えは誇りも力もなく、弱い。おそらく私たちの頭は、栄養でいっぱいになるだろう。しかし、強くなりはしない。だったら砂で頭をいっぱいにするのとおなじではないか。パパラギはこんな役たたずの上の栄養で頭をあふれさせている。ひとつが追い出せないうちに、もう新しいものを取り入れる。パパラギの頭は、自分の泥で窒息しそうになっているマングローブの沼地のようなものだ。そこはもう緑もなければ、身を結ぶものも育たない。ただ吐き気をもよおす上記が立ち昇り、刺す虫ばかりがぶんぶんうなっているだけだ。

まやかしの暮らしのある場所と束になった紙が、パパラギをいまの姿にした。弱く、迷いの多い人間、本当でないことを好み、もはや本当のことを知ることができない、月の似せ絵を月だと思い、字の書かれたむしろを人生そのものだと考える、そんな人間になってしまった。

ツイアビがネットを見たらなんというだろうか。